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写経講座 「お盆に思う」より(つづき)
東田隆光さんの「お盆に思う」のつづきです。

そもそも「お盆」とは何のためにするのか?何が目的なのか?
まず第一には、先祖の霊を供養するためである。事故や災害に遭われて亡くなられた方や、幼くして亡くなられた方が、特に昔は少なくなかった。その様な方々の御霊の救済をするためにご供養をなすのである。と同時に、先祖の供養を通じて、普段は忘れがちだが、いま我々の命があるのは先祖の方々が連綿と命を大事に育み・つないで来てくれたお陰であることを思い出させてくれる大切な機会にもなっている。先祖諸霊に対し感謝の気持ちを持って手を合わせたい。
 次に上記に関連するが、既に亡くなった先祖だけではなく、今生きている先祖・即ち両親或いは養父母・連れ合いの親等のお陰であることも思い出させてくれる機会にもなっている。お盆では、日頃離れて暮らしている家族が久しぶりに実家に集まり、親の無事・お互いの無事を喜び合う、と言う光景をよく目にする。離れてみてわかる親の有難さ、である。お盆は生きている人の供養のためにもあると思う。
そして最後に、お盆とは自身の命の在り方に思いを馳せる機会でもあるかと思う。先祖や他者への供養は、自分の命の在り方を見つめなおすとても良いきっかけになる。自分は果たして命を尊く輝かせているだろうか?或いは虚しく曇らせてはいないだろうか?と。自分の命を見つめて生きることはとても大事で、当然自分自身のためでもあるし、先祖さま方への何よりの供養にもなる。
人生の先達方は、この様な素晴らしい機会を、後に生きている我々に残してくれていた。何と有難いことだろう。ところが、この頃はお盆の形が失われつつある。形が変わっていくのは世の常であり必然だと心得ているが、形が失われ、それと共にその精神や先達方の思いまでもが失われて行くのは残念であり、実に「勿体無い」ことだと思う。日本の、否世界の良いところを何とか次の世代に引き継ぐべく工夫をしてみようと思う。
                             合掌
東田隆光様ありがとうございました。

来月、9月の写経講座は、21日、第三木曜日午後7時からに変更です。「自分は果たして命を尊く輝かせているだろうか?或いは虚しく曇らせてはいないだろうか?」と。自分の命の在り方を見つめながら、三調を整えて、無心に筆を運ぶ写経講座です。般若心経の読経もあり「毎日のシンプルレッスン」に加えて頂けたら嬉しいです。お気軽にお越し下さい。
posted by: simplelesson | - | 16:17 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
お盆について改めて考えることが出来ました。子供たちにも命について、ご先祖さまについてきちんと伝えたいな。と思います。ありがとうございました。
| ヒロ | 2006/08/23 10:22 PM |
結婚前の私はいわゆる「無宗教」で結婚と同時に仏壇に手を合わせる生活になりました。ほどなく子どもが生まれて、赤ん坊のいる生活では、仏壇にお茶をお供えして、お経をよむ10分が朝の貴重な時間には面倒に感じるように。
ですが最近、変化が・・・朝の時間が心地よいのです。特にお経の後、静かになった瞬間、合掌して座っている、ほんの数十秒。細胞がシュワシュワいって、ほんのり感謝の気持ちが湧いてくるような感じです。
2歳児と24時間一緒の毎日は心静かな時間など程遠い、と思っていましたが、あわただしい毎日だからこそ、みつけられた事かもしれません。
これは小さな喜びで、御先祖への思いや自分の在り方を考えるまでには、およびませんが、手を合わせる、無心にお経を唱える、写経する、という時間は自然と「本来の在り方」に導いてくれる手段かもしれません。気功と一緒ですね。
| ノブコ | 2006/08/25 5:32 PM |
私のお盆の原風景は小学生の頃、家の前の苗代一面に蓮が葉を広げ、花を咲かせてほのかな香りを漂わせている。村の人たちはみな墓の草刈りをして墓石の前に棚を作り、家では仏壇の前に棚を作る。山から萩、ススキ、花壇から花を切ってきて棚に付ける。お盆用のお菓子に糸を付けて棚に吊るす。なぜかはまなすの実を吊るす。8月13日、家の前から採ってきた蓮の葉に赤飯やら果物やらのごちそうを盛る。墓地に行って同じごちそうを墓石の前の棚に乗せ、酒と水を墓石のまわりに注いで、おもむろに墓石に向かって手を合わせる。無縁仏にも手を合わせる。辺りから秋の虫の音が聞こえている。こうして墓地に行っているときというのは不思議なほど心が落ち着いていて、静かに先祖に思いを寄せていたと思う。今こういう風景はなくなってしまった。仏壇の前に棚を作るのは自由だから、田舎の両親も若い頃はやっていたが、年老いて体の自由が利かなくなるとできない。若いものが同居していれば状況は別かもしれないが老夫婦の二人暮らしでは簡略化せざるを得ない。今では棚の真似事でひもを一本渡してあるだけである。墓地はからすが来るからということで墓地にごちそうを残したままにしておくことは許されない。そんなこともあってだれも棚を作る人はいなくなった。早い話が昔の風習がすたれてしまった。すたれさせているのはまさに私自身、また同世代の我々なのだが、「形が変わっていくのは世の常であり必然だと心得ているが、形が失われ、それと共にその精神や先達方の思いまでもが失われて行くのは残念」と思う。息子の命日が8月13日、姉の命日が8月17日なのだが、お盆の意味を忘れず、供養を忘れるなよというメッセージなのかもしれない。
| ichi | 2006/08/26 9:40 PM |









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